ルイのその他をお届けします!
セールやイベント情報をいち早くおしらせします。
セールやイベント情報をいち早くおしらせします。
TANEです。
先日エンディング産業展に行ってまいりました。
昨年行ったから今年は行かなくていいかなと思っていたのですが、
弊社吉川社長がセミナーの講師として、中国との石材貿易の近況を報告するとのこと。
社内から誰一人見学に行かないとのことで可哀想なので急遽東京に向かいました。
昨今は事前エントリーをネットで済ませての入場となっておりますが…大行列。
これは事前エントリーを済ませているのですが、名札をプリントアウトしてない
QRコードだけでの入場者の列です。
念のためプリントしていた私はラッキー!一瞬で手続き完了でした。
来場者数は昨年より増えたような気がします。
撮影禁止でしたので写真はありませんが、フクイシさんのガラスの集合墓かな?
「光り墓」の展示と創ingセレモニー萩原さんの白木の祭壇の存在感が印象的でした。
今年も仏壇屋さんを探していたのですが残念ながら出店なし。
樹木葬もアピールの必要が無くなったのか以前ほど大きなブースはありませんでした。
代わりに目をひいたのが古墳。キャッチコピーは「シン古墳時代到来!墓石を
建てる時代は終わりました!」
神明鳥居の模型とパンフを配る巫女さんはインパクト大でした。
古墳を使うの?って思いましたが、古墳型の霊園?を作って、
樹木葬?みたいに納骨するみたいです。
他にはデコった骨壺とか宮内庁御用達の高級骨壺などもありましたよ。
今回石材業者として面白かったのが、陶器の造花をリリースしたセトクラフトさんの
陶器のお花「花RENNUカレンヌ」です。
近年お墓でプラスチックの造花をよく見かけるようになりましたが、
屋外なので劣化しボロボロになっていることが多いです。
陶器ですと屋外でも劣化も退色もほとんど無く半永久的に飾れるそうです。
樹脂の造花と比べ石材との相性が良さそうでしたよ。
あ!そうだ、うちの社長のセミナー見に来たんだった…
光福寺の宝篋印塔
昭和二十八年八月二十九日 国指定有形文化財
この宝篋印塔は、高さ二.一mを計り、元亨三年(一三二三年)に造立されたものです。均等のとれた美しいもので鎌倉時代の宝篋印塔の特徴をよく伝えています。
裏面の銘文
奉造立宝篋印塔一基
右塔婆者大日本国武州比企
玉太岡四国山光福禅寺沙門
鏡空子円元亨発亥
仏成道日起之誌之矣
当時大檀那比丘尼妙珊
藤原光貞朝臣
施主妙弥閣阿
埼玉県教育委員会
東松山市教育委員会 引用
地元の銘墓
(丹羽家)
丹羽家は桓武天皇の皇子良峯安世、又は児玉惟行を祖とする氏族で
尾張国春日井郡児玉村を本貫としました。
丹羽長秀は織田信長に仕え、特に豊臣秀吉に早くから協力した事で
123万石の大大名に出世しました。
丹羽長重は波乱万丈の大名で、大幅減封や改易などを繰り返しながら
白河藩10万石で復権しています。
丹羽光重の代で二本松藩に移封となり以後明治維新まで
丹羽家が藩主を歴任しています。
TANEです。
今回ご紹介するのは群馬県藤岡市の三名湖霊園です。
藤岡市街から少し南に位置し、見晴らしの良い小高い丘の上の
宗教・宗派不問の墓地です。
東側の区画は比較的古く、階段の上り下りを必要とするのですが、
新しくできた丘の上の区画は駐車場とフラットで人気が高く
次々と新区画を増設しています。
敷地も多数から選択でき、立ち拝みタイプや外柵タイプとバリエーションに
富んでおり、石種との組み合わせでご予算に合わせ建墓できるようです。
本体も比較的自由にデザインでき、おしゃれな洋型も多々あります。
今回は新規増設の樹木葬エリアをお手伝いさせていただいたので
ご紹介させていただきます。
間口26尺奥行16尺正面はピンクの御影石を使用し、袖石と石碑は
ニューインペリアルレッドを使用。
大小合わせて約100組が埋葬できるエリアとなっております。
お施主様のニーズ、予算に合わせてご案内でき、リニューアルした
店舗では法要や霊祭にも対応できるとのことです。
三名湖霊園
所在地:群馬県藤岡市三本木540番地5
問い合わせ:0120-652-375
E-mail:sannakoreienn@yahoo.co.jp
受付時間:10:00AM~5:00PM
お休み:水・木曜日
公式サイト:三名湖霊園公式サイト https://sannako-reien.chu.jp/
駐車場:あり(無料)
武田信玄公御墓所
天性元年(1573年)4月12日、信州伊那駒場で53歳で生涯を閉じる。
3年間の秘喪を命じ、嫡子勝頼公は二十四将の1人土屋右衛門昌次の邸内で、
天正4年4月16日山梨県塩山恵林寺にて、葬礼を行い埋葬した。
その後、安永8年(1779年)甲府代官中井清太夫が発掘して、
甲府市岩窪へ埋葬し今日に至ります。
「法性院機山信玄大居士」(天正元年四月十二日没)
武田信玄公御墓所
sonoです今回は熊本市にあります【加藤清正公 御廟所『本妙寺』 】です。
熊本市の中心地にそびえ、熊本県人の魂であります「熊本城」地震での被災は熊本県民の心を痛めました。
その熊本城を築城したのは加藤清正公(かとうきよまさ こう)です。
清正公は、天正16年(1588)肥後に入った後の長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために
治山治水工事や、水田の開発等に力を入れ、その工事の功績は大変大きく、
現在でも現役で利用されているものがあります。
また、南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行うことで、
肥後は豊かになったそうです。
その為、加藤清正はやがて領民から神様のように慕われ、
現在でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれています。
その清正公が慶長16年(1616)熊本城中で亡くなり遺言により、熊本城に相対し自身が
築いた熊本城の天守閣と同じ高さの地に葬られて、淨池廟と称されたそうです。
元和2年(1616)には清正公のお墓を守るために熊本城内より移転してき、
淨池廟は正面に清正公の木像を安置しておりその真下に清正公が葬られており、
この建物全体がそのまま清正公のお墓であるそうです。
わたしも何度もこの場所には、伺っていましたが、この度初めて全体が
お墓であるという事を知りました。
熊本には秋の大祭があり清正公に関したその祭りの音色を聞くと熊本県民は
心が躍り血が騒ぐ感覚になります。
TANEです。栃木県出身の武将超有名な人がいました。皆さんご存じ、弓の名手那須与一です。
所在地:栃木県大田原市 玄性寺
平安末期に栃木県の那須郡那珂川町近辺で那須家の11男として生まれました。
治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦では9人の兄達は平家に仕え、与一と兄十郎為隆は源頼朝に仕えました。
平家物語の一幕「扇の的」では源義経軍に従軍した与一が屋島の戦いにて…
時は日暮れ、平氏は船上、源氏は海辺、戦は明日へ持ち越しと引き上げようとしたところ、
平家方の船が一隻源氏方に近づいて来ました。船に扇を立てかけ、若き女性が手招きしています。
この扇を射てみよと…義経は与一に扇を射るよう命じます。両軍が見守る中、海に馬を乗り入れる与一。
距離は約75メートル、波は高く逆風の北風が激しく吹いています。
与一は目を閉じ「南無八幡大菩薩…願はくは扇の芯を射させ給え(略)」と祈念し、矢を放つ。
矢は扇の要の際から1寸ほど上を射抜き、扇は海に舞い落ちました。こ
の見事な一射に平氏の武将が舞を舞います。
しかし義経の命でこの武将も射殺してしまうというお話です。
影でよく見えませんね… 古からの名声は永遠に伝え残るってことかな?
その後、兄十郎為隆は義経の命に背き罪人となり、与一は屋島の功績により5つの荘園を
賜り那須家の家督を継ぎ二代目当主となったのです。
那須家の墓所
与一の父資隆の墓 与一宗隆の墓
22代目当主資景の妻の墓 22代目当主資景の墓
なんと、22代目当主資景は関ケ原にて東軍に参加し1万4000石の大名として
那須藩を立藩し初代藩主となったそうです。
那須家歴代の合祀碑 何故か11代目当主資重の墓
立派な宝篋印塔が立ち並び与一の子孫も出世しロマンを感じる墓所でした。
玄性寺
所在地: 〒324-0024 栃木県大田原市福原361
電話: 0287-28-0211
※古墳型集合墓
現在8基建立されており、あと2基建立予定。
古墳型集合墓は、部材の数が多く複雑な形状の為、施工にあたっては
高い技術が求められる。